諦めることで前進する、私の精神・発達障害は自分の一部に過ぎない

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障害当事者同士の自己紹介で

「○○という障害(病気)で○○ということに困っています。飲んでいる薬は○○で、○○ができないので○○の配慮が必要です」

と病気障害の紹介がほとんどで、名前すら紹介されない場合もあります。
人間同士何に興味があるかというと、どういう趣味を持っていて、どんなものが好きで、休日はこんなことをして、仕事はこんなことをしていて夢はこんなことを持っていて、そんな話がその人のディテールを深めます。

病気障害はその人の全人格の全てではなく「一部」に過ぎず、その人を現す絶対必要条件ではないです。

ただ現実問題、病気障害は社会との隔絶を余儀なくされるので本人にとっては大問題であったりします。

私は病気障害のことは諦めています。
とはいっても健康は目指します。
どうあがいても一生背負うものですから一緒に歩んでいくという前向きな諦めです。
私の一部と考えた時、私の中で病気障害は小さなこととなりました。

私も自己紹介は病気障害を押し出したものでした。
諦められなかったからです。
病気障害を諦めるとはなんでしょうか?
どんな心境なのでしょうか?
自分を振り返りながら書いてゆきます。

目次

過去の自分にしがみつく

病気障害が発覚する以前は仕事にプライベートに忙しくしていました。
収入もそれなりにありましたし、交友関係も広かったです。

それが病気障害がわかり倒れて以降、収入はなくなり交友関係は途絶えました。
認めたくない現実に健康であった頃を諦めきれませんでした。
しばらくは療養しながら健康を諦めきれず苦々し思いをしました。

動けるようになると

Siri

働きたい!

と思い主治医へ就労の許可を得ようとしました。

お医者さん

まあデイケアから始めましょう

Siri

デイケア?

デイケアとは様々なプログラムを通し社会生活のスキルを習得する場所です。

私は働きたいのにと憤慨しました。
ですがデイケアへ通い始めて変化が現れました。
早く働きたかったからです。

利用者の方たちと触れ合う中で、病気障害は語られず人間同士の交流に重きを置かれ、その環境の中で自分の認識が「病気障害を持った自分」から「自分は多少困った特徴があるけどそれは一部でしかない」という認識になりました。

Siri

健康であったかつての自分でなくてもいいのでは

と思い始めました。

障害があっても自分は変わらない

徐々に障害を自分の特徴と受け入れられるようになり、生活の中での困りごと、例えば片つけられない、家計管理ができない、料理ができない、人とコミュニケーションが取れないが解決していきました。

デイケアで訓練したおかげでもあるし、図書館で本を読んで勉強したこともあり、障害は克服されていきました。

その間、自分に変化があったかというと大きな変化はないです。
基本的に私は私であって変わりはありません。

障害が発覚する前と発覚した後で私という人物は変わりはありません。
私は障害が発覚する前はもっとできる人間で社交的だったと幻想を抱いていましたが、実際はそうではなかったですし、それは現在もそうです。

ですが無力で社交的ではない、無能で健康的ではないと諦めてから私の人生は大きく変わりました。

障害があることを諦めたことで進み始めた私の人生

無力、非社交的、無能、健康でない、自分のネガティブな要素を認めると、それをどう払拭しようかと考え動き始めました。

そうするとそれまで対策していなかったことが出来始めるので人生は好転し始めました。

そうなんです、障害や自分の能力を受け入れることで始めて自分の対策を立てることができたのです。

無能さは、人一倍時間を使い、勉強し、出来得る限りの努力をしました。

非社交的は、コミュニケーションの本をいくつか読み基本的なコミュニケーションにおいて重要な要素を外さないように「常に」意識しています。

健康でないは、日頃の散歩やストレッチや筋トレ、服薬管理、更には主治医や訪問看護さんと連携することで体調管理する。

障害が分かる前は自分が無能で非社交的、健康ではないと思っていなかったので当然対策していなかったです。
今は対策しているので生きることがラクになりました。

人はネガティブなことを認めたくはないです。
でも事実であれば認めることで物事は進むように思います。
多くの経営者や成功者も同様のことを言っています。

精神・発達障害は一生のことだけど、私の全てではなく一部にすぎない

主治医から

お医者さん

この精神や発達の障害は一生付き合っていかにゃならんもんじゃが、うまくなじんで普通に生活を送られるようになるんじゃ

私は一生という言葉に大きくショックを受けてしばらく落ち込みました。
ですが、薬の調整が進み、ピッタリあった薬になった時、私は日常を取り戻しました。
今では障害は他の人からはわかりにくく、自分でも忘れるほど小さくなりました。

冒頭に戻り、自分を紹介する時、たしかに自分を説明する時、障害というものは大きなファクターになりえますが、自分の全てではないはずです。

私の場合も、小さくはなっていますが障害がありますが、私を説明するのに必要条件ではないです。

誰かを紹介するのに障害というものは必要十分条件ではなく、付加条件であってもなくてもいいものではと私は思います。

それよりもその人はどんなモノが好きか、どんなことが好きか、どんな仕事が好きか、どんな趣味を持っているかなどのほうが、その人のディテールを深めます。

一度当事者会へ出たことがありますが、時間の大半は自分の障害の説明で交流する時間もあまりありませんでした。
どんな本を読んでいるか、どんな映画を観たか、どんなアニメが好きか、そういった生活に根ざした話をお互いにしたほうが楽しいのではないでしょうか。

私は途中から不快に思われる方いるかも知れませんが障害を「芸」、受傷歴を「芸歴」というようにしています。

テレビを見ていると別の何かが聞こえてしまう芸、自動的にとりとめのない思考が勝手に湧いてくる芸、多くの音が聞こえると全部同じ音量で聞こえる芸、遠くで人が集まって話しているのを見ると自分のことを言っているように感じる芸。

どことなく芸としてしまうと障害も自分にとって重くないように思われます。
ピッピさんにも

Siri

また芸始まっちゃったから、ちょっと待って!

と言っています。
どことなく深刻な感じもなく、相手に負荷も与えていない感じがします。

障害は生きることをツラくしますが、ツライと捉えているのは自分の心であって、捉え方を変えることで乗り越えられるように思います。

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