クリスチャンなので教会でお話を聞いたり、集まった人たちでワークライフバランスの話をしたり(あくまでキリスト教においてどうバランスをとるか)、ジェンダーの話をしたりします。
先日、ワークライフバランスについてお話をしたときに
「精霊の導きにより困っている人により多く施しを与える時」
の話があり、参加者からは
「その人のためを思うのならアドバイスのみにし成長を促す」
「その人が足を引っ張る原因ならば排除すべき」(ラディカルではありますが一般心情でもあると思います)
など意見がでました。
私は
隣の三尺
ということわざを思い出しました。
隣の三尺とは、例えば雪かきで自分の家の隣の家三尺分だけ雪をかく、そうすると恩を押し付けるわけでもなく、少し感謝ももらえる。
次に三尺分の親切ももらえるというもの。
これを隣の家のすべてを雪かきをするとお互い恩を売り始めて収集がつかなくなります。
ほどほどの親切が良いということです。
私としては少し親切をする程度に留めます。
自分のリソースを使い切らないためですし、その人の成長にも繋がらないような気がするためです。
◯親切は見返りを求めないなら最大限する
親切をするにしても、見返りを求めないなら最大限していいように思います。
感謝も報酬もいらない、そういう心持ちならば積極的に親切をしてもいいはずです。
ただ人間どこかで見返りを求めがちです。
一度見返りのことを考えると心苦しくなります。
教会で集まった人の話でも、
「挨拶もお礼もないと親切もくじける」
という話がありました。
クリスチャンは博愛ではないかという話が出てきそうですが、人間なので完璧ではないです。
人間完璧ではないのでお互い完璧を求めず、期待せずがちょうどいいというのが私の考えです。
◯親切はほどほど、三尺程度がいい
親切を求める人もいますが、そういう人はおいておいて、親切はほんの少し、三尺程度がいいように思います。
なぜかと言えば、人間体力時間経済など持てるリソースは限られています。
それを他人のために使うと自分のためにリソースを使えなくなります。
継続的な親切を行うためにもほんの少しの三尺分の親切でいいように思います。
人間全てをなげうって他人のために尽くしたとしても他人が自分を助けてくれるとは限りません。
自分を守るのは自分です。
限りられたリソースは自分のために使いたいです。
◯邪魔になる人は排除してもいいのか
「その人が足を引っ張る原因ならば排除すべき」
こんな意見もありましたが、果たしてそれはどうだろうと思います。
人間誰かの足を引っ張っていることもあります。
お互い様であるし、今度自分が邪魔になる時の予防線にもなるので人は責めません。
いいこと何一つないですからね。
それにその方は人間関係に悩まれていましたが、人間関係は信頼関係の構築が重要で責めていては構築は難しいように思います。
私も昔は我が強く他人を責めていましたが、気持ちを切り替え他人を責めないようにしてから、人間関係もうまく行っていると思います。
◯突然ですが節約には隣の三尺は大切
先も述べたように個人の経済、時間、体力のリソースには限りがあります。
それらは個人の財産です。
どう使おうと自由ですが、いざという時に使えるように、私は節約しています。
別の言い方をすればバッファー、余白を作ること。
特に私は余裕がないと資源、特に体力とそれに伴って時間も減っていきます。
バッファーを作る意識をすることで、自然と親切もわずかでも最大限になり自分のリソースとのバランスも取れます。
三尺分の気配りを忘れず、親切をしていきたいです。
今後も大切にしたいことですね。
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