父親の前立腺がんの治療がひとまず終了間近となり、一安心と思ったら、母親が言うには急にお腹が出てきたという話を聞き
「まさか腹水?」
と思い、病院受診となりました。
ガンが転移していたら怖いけど何が怖いのだろう。
父親とは1度断絶しており、実家には入らせてもらえませんでした。
それが生活保護となった時に連絡がいき、本当に具合が悪いのだということがわかり、父親から頭を下げられました。
それでも一度冷え切った関係は改善しません。
今では喋れるようになりましたが、どこかぎこちないです。
それでも死を思うと怖くなります。
しかし何が怖いのかピンときません。
◯父親とは子どもの頃から折り合いが悪かった
子どもの頃から問題行動を起こしていた私は、両親が支援級か養護学校を考えるほどでした。
今思えばそれのほうが良かったかもしれません。
強くしつけられる子ども時代は鬱々したものでした。
学校を卒業するまで自分らしく振る舞うことは許されず、常に父親の許しを得てからしていました。
殴られもしました。
しつけなのかもしれませんが、子どもながら結構な衝撃です。
父親は私を邪険にしつつも外からは隠すようにしていました。
なので私が表立ってなにかすることもなく、知り合いも少ない生活でした。
◯就職してからは父親との関係はほとんどなくなった
就職してから夜勤があったため父親と顔を合わせる機会はほとんどなくなりました。
顔を合わせても私はすぐに寝てしまうので会話もありませんでした。
その頃の私は休みの日は遊び歩いてほとんど家にいませんでした。
ですが私にとってそのほうが楽でした、会話をすることが苦手な私は喋らないことほうが楽です。
◯祖父の扱いに憤慨する
ある日祖父が我が家で一時的に介護することになったのですが、父親はぞんざいな扱いをし、私は酷いなと思いました。
その分祖父を手厚く介護し看護師への道を目指すことになります。
童話で父親の祖父をぞんざいに扱う子どもが、木彫りの粗末な器を掘り、父親が誰の器を作っているのかを聞くと父親の器を作っていると聞き、父親は祖父の扱いを改めた、という話があります。
私は父親のひどい仕打ちを見て落胆したのかもしれませんし、ああはならないと思ったのかもしれません。
自分の感情と考えが希薄なため、思い出せませんがその可能性は多分にあります。
◯看護学校を事故で退学した後、実家から絶縁される
看護学校を統合実習前にバイクの事故で靭帯断裂をし退学を余儀なくされ就職する時、父親は実家へ来ることを拒みました。
実家へ上がることも許されませんでした。
ご近所的に退学した子どもが戻ってくるという対外的なものなのかもしれませんし、何か考えがあったかもしれませんが、どうでもいいです。
私は実家から絶縁され関東へ出てきました。
その後、転職を繰り返しながら徐々に体を悪くしある日倒れました。
◯生活保護になり、連絡が行った時に障害者として受け入れてくれた
生活保護が決まる前に実家へ連絡が行き、私が受給することを聞くと父親はすぐに来ました。
主治医とも面会し、私の障害は一生続いていくもので良くなることはなく維持されるものだという話を聞きました。
そこで私のアパートへ来ると頭を下げ謝りました。
正直どうでもいいと思いました。
私の障害が認められても一度捨てられた私はボロボロになったので、二度と前のようには働けない、手遅れだと思いました。
嬉しさは1ミリもなかったです。
その後実家の母親とは連絡を取るようになりましたが、父親とはたまに電話をするだけです。
何を話して良いのかわかりません。
◯父親の死の予兆に何を怯えているのか
それでも父親の死は怖いです。
なぜ怖いかといえば、多分私の怨嗟の対象がなくなることと、逆に親孝行の対象が消えること。
どちらもです。
明日父親と母親が田舎から初孫の顔を見に来ます。
それは良いことだと思いますが、私は複雑な気持ちです。
素直に喜べるのか、正直わからないです。
それも子どもとして何かできたらいいなと思います。
恨みとしてでも恩としてでも。
コメント