若い頃はあまり勉強をしなくて高校の頃はどの教科も赤点だらけでした。
あまりの頭の悪さに自分でも諦めていました。
でも読書が好きで本ばかり読んでいました。
ある日、新聞のコラムからある書籍に興味を持ち一冊の本を読むことで大きく人生を変えることになりました。
西研著「哲学の練習問題」
この中のニーチェの名言に勇気づけられました。
以後の私の人生は激変しました。
哲学に触れ周辺学問にも興味が出るようになり、多くの書籍を読み今ではそれなりに知識がついたように思います。
資格を多く取ったり知識系の資格取得したり、英語身につけたからいいかな。
生きることを勇気づけたい
私はとにかく自信がありませんでした。
低学歴、低収入、頭の悪さ、容姿の悪さ、どれをとっても人に秀でるものはありません。
果ては自分を無価値で死にたいとさえ思っていました。
ただそれを嘆いたとしてそれが改善するわけでも現実が変わるわけでもないです。
多くの本を読み自分を鼓舞したいと考えていました。
その中で西研さんの本のニーチェの言葉に出会いました。
どこかに絶対の生きる理由があるわけではない。 生きる理由を求めるのは、 君が自分を勇気づけたいからなの だ。 君は自分の外に何かを求めるのではなくて、 君自身に尋ねなくてはいけない。 どう生きることが自分をいちばん元気にするのか、 と
西研. 哲学の練習問題 (ニーチェ)
この名言は強烈に私の中に染み込み、今でも私の行動原理になっています。
自信がない時、誰かに褒めてほしい時、生きたい時
どうすれば自分が元気になるか
を選ぶことで困難を乗り越えてきました。
人は苦難に出会うとどうしても自分以外のなにか大きなものにすがりたくなります。
それはときに宗教だったり、悦楽だったり、自分を忘れられるなにかにすがります。
ですが、それは一時的なものですぐに苦難の苦しみが戻ってきます。
そして再び自分を忘れる何かにすがる、麻薬のようですね。
それでは問題解決にならないですし、永遠に苦しむことになります。
その時に、
困難はツライけどどうすれば自分が元気になるか
を考え、問題と向き合ったほうが現実は変わります。
ルサンチマンにとらわれず新たな人生を歩む
病気で倒れ生活保護になり自己破産をした時、人生のどん底だと思いました。
寝ていても良くなる保障はなく、永遠にこんな日が続くと思いました。
その時思いました。
なんで私だけこんな目に遭うの!
日常できたことができなくなることは大きな喪失体験です。
私は私の世界の中だけで
なんで!
と思っていました。
ですが、ニーチェのルサンチマンの思想に触れました。
「これまでどおりには生きられないとしても、これからどうやって生きようか」と問い、新たな人生の物語を作り出そう
西研. 哲学の練習問題 (ニーチェ)
確かにツライ出来事でした。
それでも、この自分を受け入れ、どう生きることを模索することで、できる範囲の幸せにたどり着けると考えて再び動き始めました。
現在では生活保護を脱し、作業所で就労しながら個人事業主として働き、結婚し家事をしつつ日々を送っています。
以前のようには生きられませんが、今の私は以前の私と違います。
それを嘆いたとして以前の私には戻れません。
それよりも今の自分ができる精一杯のことをして自分なりの人生のあり方を問い、意味付けをしています。
生と死の間の現在を精一杯生きる
死を覚悟した時、自分には何もないと思っていました。
その想いは今でも変わりません。
ですが、なにもない私でもつながりが残っています。
結婚したのでピッピさんとの関係、不安定ながら修復された両親との関係、支えてくださる方たちとの関係。
そのつながりを全く無視して自分の命を閉じるのはその関係を断つことになり、なんとなくもったいないと感じます。
つまり私は何も持っていないのではなくつながりを持っていたことになります。
お金や社会的地位などはあまり意味がないようです。
つながりのお陰で生かされています。
今の生を充実させるためには自分の生を十二分に使うことではないかと思っています。
多くの方に支えられたからです。
寄付もその1つです。
それが働く動機にもなっています。
自分の生を肯定できてから人生は好転したように思います。
それこそニーチェの永劫回帰の思想のように、
人生をぐるっと見渡し1つでもいいことがあればそれは良い人生である
というように、私も自分の人生をいい人生だと思いますし、いい人生にしようと努力しています。
今日は誕生日、人生の折り返しで人生を振り返ると決して悪くはない、いい人生だったと思い、今後の人生も良い人生にしようと決意を新たにしました。
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