夕飯に父親が釣った岩魚を食べました。
塩焼きにしてこんがり焼き上げホクホクに。
美味しいお魚に夕食も進みます。
父親は厳しい人で一度は絶縁されています。
そんな父親が自分で釣った魚を送ってくれたのはなんとも形容詞がたい気持ちです。
素直に喜べない自分がいます。
⚪父親とまともに話したことのない子ども時代
子ども時代は病弱で勉強もできず運動も制限がかかり手のかかる子どもでした。
その頃から障害の片鱗が現れていたようで子育てに手を焼いていたようです。
父親からは怒られてばかりいました。
褒められて記憶はないです。
そうするとどうしても自己肯定感の低い子どもが出来上がり、何をするにも自身のない積極性のない子どもになります。
そしてそれが父親にとって悪くうつっていたようです。
⚪学生時代は会話のない生活
学生時代に父親と話した記憶はないです。
反抗期というわけではなく、部活で忙しかったということもありますし、父親から話しかけてくることもなかったです。
こうして父親とは距離を離していきました。
それについて不平不満は持っていませんでした。
「そうなんだ」
くらいの気持ちです。
⚪1回目の就職の際にさらに距離は離れる
高校卒業後、アルバイトを経由し就職しました。
夜勤のある仕事でさらに父親とは話をしなくなりました。
私は夜勤から帰ってくれば昼間は寝て、夜は遊び歩く生活を繰り返していたので自宅にもいませんでした。
そういう生活に関して父親からとやかく言われたことはないです。
放任だったのか興味がなかったのか知りませんが、15年ほどそういう生活が続きました。
⚪突然の看護学校進学に父親は絶縁を言い渡す
祖父の介護経験から看護師を目指すようになり、無事看護学校を合格しました。
その時父親に言われたのは
「盆暮れ正月以外家へ上がることは許さん」
という言葉でした。
私は特に衝撃もなく、
「そうなんだ」
と思い、看護学校合格後、在学中は盆暮れ正月すらも実家へは帰りませんでした。
なにせ上がることは許さないのですから、それは忠実に守りたいです。
⚪看護学校中退の時にさらに絶縁を言い渡される
看護学校はバイクの事故のため退学することになってしました。
父親は
「実家から就職することは許さん」
ようは帰ってくるなということでした。
私は特に気持ちも揺れず
「そうですか」
と思い、関東へ出てきました。
関東へ出てからはブラック企業を転々とし体を壊し続けました。
⚪倒れてから主治医の話を聞きようやく理解した
私はブラック企業で体を壊し、働けなくなり生活保護となった時、役場を通じて実家へ連絡が行きました。
扶養照会というものです。
その時私が大変なことになっていると思ったらしくすぐに父親は来ました。
精神科の受診日と合わせてきていたので主治医の話も聞き私の容態も聞きました。
私のアパートへ来ると少し考えると
「すまんかった」
と言われましたが
「なにが?」
と思いました。
特に思い入れのない人から謝られても正直どうしていいかわかりません。
ですが、それ以降、時折父親から電話が来るようになりました。
⚪関係は回復したけれど
父親との関係は表面上は回復したように見えます。
ただ私はいつも違和感を感じています。
本当は離縁したいのではないか、嘘だったのではないか、そう思うと、居心地が悪いです。
父親ががんになったと知った時、思った以上に揺れない自分に驚きました。
一度失った信頼関係を築くには、倍以上の時間が必要だと思います。
父親とは人生をやり直さないと行けないくらいの時間が必要です。
それはもう時間がないので、落とし所を考えて置かなければと思います。
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